【66】 マグノリア その2

小十郎がすぐ下に湧水のあったのを思ひ出して、少し山を降りかけたら愕いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二疋、丁度人が額に手を当てて遠くを眺めるといった風に、淡い六月の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめてゐるのにあった。
小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すやうに思へて、釘付けになったやうに立ちどまってそっちを見つめてゐた。
すると小熊が甘えるやうに云ったのだ。
「どうしても雪だよ、おっかさん。谷のこっち側だけ白くなってゐるんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
すると母親の熊はまだしげしげ見つめてゐたがやっと云った。
「雪でないよ、あすこへだけ降る筈がないんだもの。………おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」
………
小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになって、もう一ぺん向ふの谷の白い雪のやうな花と余念なく月光をあびて立ってゐる母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないやうにこっそりこっそり戻りはじめた。
くろもじの木の匂ひが月のあかりといっしょにすっとさした。
                                      童話「なめとこ山の熊」


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ひきざくら(セキザクラとも)
岩手、秋田両県に通用するコブシの方言名。
春早く山の木がまだ一本も青くならないころの出来事である。
聖なる時間が流れているような会話の話題としてコブシはいかにもふさわしい。

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画像提供はyonoさん
Commented by といろ at 2007-02-04 18:09 x
こんばんは。
今日水元でお聞きして、さっそく拝見させていただきました。
賢治のことばと美しい花たちの庭は別世界、
時間を忘れてしまいました。
ノブドウにうっとり、アオメアブの写真もお気に入りです。
下ノ畑のお話楽しみにしています。
Commented by nenemu8921 at 2007-02-05 21:24
といろさん。ようこそおいでくださいました。
写真は冷汗ですが、まあ、楽しんでいます。
応援団に感謝しながら。(*^.^*)エヘッ
水元の鳥や植物もイーハトーブのスケッチと重ねて、展開していきたいと思っています。
今後とも、よろしく。♪♪
by nenemu8921 | 2007-02-02 01:15 | 植物 | Comments(2)

宮沢賢治の愛した鳥や植物


by nenemu8921