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(略)
私は変りございません。こちらは、大変物価が廉くなりました。
魚や青物なんかは、おどろく程です。
食事も十二三銭出せば、実に立派なものです。
図書館の中は、どうも高くて困ります。
(略)
                   書簡193 宮沢イチあて封書 大正10年6月29日


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高いとはいえない!
清潔でシンプルな現在の図書館のなかのカフエテラスのメニューから。
カレーライス。¥370
賢治の時代、当時の食堂は地階にありました。もちろん当時の食堂とは内容も値段も異なりますが……。
賢治は十二三銭で、どこでどんな食事をしていたのでしょう。


c0104227_8585274.jpg東京ノートに「公衆食堂(須田町)」という詩があります。
須田町食堂が復活して秋葉原にオープンしているとお聞きしたので、行ってみました。
あいにく、ランチタイムが終わって休憩時間で、夕方まで注文は出来ませんでした。








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c0104227_9142611.jpgでも、親切な支配人さんの話では、当時のメニューを再現したものはオムライスとポ-クカツレツだそうです。
おいしそうですが、こうしたメニューのお店となると、賢治の食事のイメージと違いますね。





「宮澤賢治の詩の世界」さんのサイトでは、いま、この「公衆食堂」の謎を、ふんだんな資料と、緻密な論理で、シャーロック・ホームズさながらに解明しようとしています。興味のある方はぜひ、お読みください。

さて、東京生活における賢治の食生活は?

(略)
お手紙ありがたくありがたく拝誦いたしました。又脚気のお薬をたくさんお送り下さいまして重々の思召厚くお礼申し上げます。
うちからは昨日帰るやうに手紙がありました。すぐ返事を出しておきましたが、こんなに迄ご心配を掛けて本当に済みません。
先日来股引をはいたり蕎麦掻きや麦飯だけを採ったり冬瓜の汁(みんな脚気向きの飯屋にあります)を食ったりして、今はむくみもなくほんの少し脚がしびれて重い丈で何の事もありません。決して決してご心配はありません。(略)
                         書簡197 関徳弥あて封書 大正10年8月11日

脚気向きの飯屋とは、どんなところだったのだろう。
8月に股引をはかねばならなかったとは、さぞ不自由だったろう。
by nenemu8921 | 2008-02-19 08:23 | | Comments(6)
(略)
図書館へ行って見ると毎日百人位の人が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を借りようとしてゐます。
なるほど書く丈なら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。
うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる。
どうです。私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか。
どんな顔もして居りません。
これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。
(略)
                        書簡195 関徳弥あて封書 大正10年7月13日

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当時の一般閲覧室
当時の閲覧室利用は安価だったが、有料だった。他に婦人閲覧室と皇室閲覧室があった。蔵書は開架式ではなく、カンターで読みたい本を申し込み、書庫から取り出してもらい、この閲覧室で読んだ。つまり男女別室で、皇族用に一室が設けられていたわけである。この写真の中にも「小説の作り方」や「創作への道」を読んでいる人がいるかもしれない。

c0104227_183665.jpg現在は本のミュージアムという展示室になっている。誰でも無料で観覧できる。1月26日~9月7日まで「チェコへの扉ー子どもの本の世界ー」が開催されている。
壁や天井の装飾、シャンデリアなども当時のままを復元している。







c0104227_195569.jpgミュージアムのなかの現在の書庫へ通じる扉   













c0104227_1916498.jpg扉を開けると当時のままのレンガ壁が一部残されている。賢治もこの奥の書庫から本を借り出して読んだのだ。ダールケに関連した著作も読んだだろうか。島田清次郎の当時のベストセラー「地上」も読んだだろうか。












c0104227_19523054.jpgミュージアムの窓。当時のままを復元しているが、カーテンは締め切りで、室内の照明は蔵書をいためないよう配慮されている。
賢治が〔聖なる窓〕と歌った窓である。
「汚点ある幕」とは、内側の装飾部分のことであろう。






















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書簡195は、賢治が上京中にいとこの関徳弥へあてた手紙。
東京生活の中で、図書館の存在は大きかったことが伺える。

島田清次郎が大正7年に新潮社から出版した「地上」は、実売部数は50万部ともいわれ、当時の大ベストセラーだった。→
この人が世に出るきっかけを作ったのが賢治にも縁のある暁烏敏であった。
島田清次郎は、劇的な生涯を送った人だったらしい。
by nenemu8921 | 2008-02-16 23:54 | 場所 | Comments(6)
聖なる窓
そらのひかりはうす青み
汚点ある幕はひるがへる
  Oh, my reverence!
  Sacred St.Window!
              文語詩〔聖なる窓〕


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閲覧室の窓を外から撮影したもの
Oh, my reverence! Sacred St.Window!は、
「おお、私の尊師!聖なる聖(セント)ウィンドウよ!」の意。
関連したいくつかの作品を併せ読めば、この窓はダルケがたたずむ閲覧室の窓と解釈することが多いようです。
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閲覧室(現在は資料室)へ続く廊下
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明治期のガラスがそのまま使われている窓
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当時の板硝子は手作りだったため、ゆがんでいる。
by nenemu8921 | 2008-01-24 16:06 | イメージ | Comments(6)
われはダルゲを名乗れるものと
つめたく最後のわかれを交はし
閲覧室の三階より
白き砂をはるかにたどるここちにて
その地下室に下り来り
かたみに湯と水とを呑めり
そのとき瓦斯のマントルはやぶれ
焔は葱の華なせば
網膜半ば奪はれて
その洞黒く錯乱せりし

かくてぞわれはその文に
ダルケと名乗る哲人と
永久(とは)のわかれをなせるなり
                  文語詩〔われはダルケを名乗れるものと〕

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帝国図書館→国際子ども図書館
大正10年1月23日、家を出て上京した賢治は、本郷の菊坂町に下宿し、東京大学前の文信社でアルバイトをしながら、国柱会や図書館へ通ったり、童話を書いたりして、8月半ばまで東京で生活した。
上野にあったため上野図書館とも呼ばれた帝国図書館にはしばしば通ったらしく、この文語詩の素材となった「図書館幻想」は、その頃の体験をもとに書かれた作品である。
往時の帝国図書館(明治39年3月竣工)は、昭和4年に一部増築され国立国会図書館支部上野図書館を経て、平成12年(2000年)に創立時の建物、内装の一部を復元し、新に増設された部分も併合して国際子ども図書館として開館した。安藤忠雄の設計によるものだという。
賢治が上京した季節に合わせて、図書館を訪れてみた。
建物左側のガラスのエントランスホールは新設された部分である。屋根の避雷針は創立時の復元だという。
建物の施設に関して詳しくはこちらをどうぞ。

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大階段と呼ばれる階段は透明な手すりが施されているが、ほぼ当時のままを復元したもの。宮沢賢治もこの階段を上って3階の閲覧室へ通ったのだ。
by nenemu8921 | 2008-01-22 23:48 | 場所 | Comments(2)

宮沢賢治の愛した鳥や植物


by nenemu8921