寂光ヶ浜→浄土ヶ浜
2009年 08月 27日
折しも、花巻東高校が甲子園で熱戦を繰り広げているときだったので、県内、何処でも話題は菊池雄星くんのことでもちきりだった。
皆さん、燃え上がっていた。結果的にはベスト4に終わったが、多くの人に元気と勇気を与えた夏だった。どなたも花巻東の話になると、はじけるような笑顔になったのが印象的だった。
旅のあれこれを、宮沢賢治の世界とクロスさせながら少しづつ紹介したい。お付き合い下さい。
まずは浄土ヶ浜です。友人のご案内を戴き、三陸海岸を廻った。
麗はしき海のびらうど褐昆布寂光ヶ浜に敷かれ光りぬ
歌稿A560
1、
寂光のあしたの海の岩しろくころもをぬげばわが身も浄し
歌稿A561
2、
雲よどむ白き岩礁砂の原はるかに敷けるびらうど昆布
歌稿A562
3、
寂光の浜のましろき巌にしてひとりひとでを見つめたる人
歌稿A563
4、
5、
1917(大正6)年、7月、宮沢賢治は、花巻町有志発企による「東海岸視察団」に参加して、
釜石、宮古などをめぐった。
「東海岸視察団」とは、軽便鉄道の敷設により花巻ー釜石間が結ばれたため、東海岸の産
業状態を視察しようという目的で結成された実業家有志36名の団体だった。
賢治はこのとき盛岡高等農林の3年生だったが、宮沢一族の直治、右八、弥吉などとともに
参加した。
寂光ヶ浜は法華経の常寂光土(仏の住む世界)から、イメージしたネーミングであろう。
賢治の創作である。
「あしたの海」とあるから、朝の情景だったのだろうか。
我々は日暮れ方に此処に立った。遠く海のかなたに虹の足もとが見えた。2の画像です。
短歌では浜で昆布を干している情景が歌われているが、昨今では大観光地となっているので、
昆布を干す風景は見られない。
けれども、昆布はこの地の名産であることは変わりなく、昆布売りの姿があった。
浄土が浜、20年以上も前に亡くなった父と出かけた思い出の浜辺です。
宮古の旅館に泊まり、新鮮な魚を肴に酒を酌み交わしました。宮古は、何度も出かけた町です。
“[寂光ヶ浜]は、賢治の創作”のコメントに、あわてて「語彙辞典」を引っぱりだしました。そうなんですね。語彙辞典には白秋の影響かとの文字も見えました。・・・賢治との距離は縮まったり離れたりです。
浄土ヶ浜の情景は、父上とご一緒なさった20余年前と変わらないわけですね。
おそらく賢治が訪れた90年ぐらい前とも、そんなに変わっていないのでしょうね。
賢治と同じように、宮古に泊られたのですね。
拙い画像から、なつかしい時間を思い出していただき、冷汗です。
便利な時代になって、盛岡から日帰りで行けるようになりました。
賢治の造語癖は、ほとんど身に備わった習性みたいなものだったのでしょうか。
語彙事典は、たいへん便利で、重宝していますが、あまり記述にとらわれないようにしています。(^^♪
自然科学関係の記述は間違いが多すぎますもの。
Googleは面白いですね。(#^.^#)今日だけかしら?
しばらく続くのでは……。
「めぐり逢うことばたち」のお部屋も、エキサイトに変わってから、読みやすくなりましたね。
改めて、リンクさせていただきました。
どうぞ、今後ともよろしく。
三陸海岸・浄土ヶ浜に足をのばしたことありませんが、名前の由来のように良いところなのでしょうね。
浄土ヶ浜に虹が現われ「寂光ヶ浜」を感じさせますね。
歳と共に夢(希望)を追いかける事が少なくなったのに比例して、虹を見たくとも中々遭遇出来ません。
高校球児は、なにか、青春の結晶体みたいなところがありますね。
見る人も自らの青春期を思い出すのでしょうか?
虹は、どういうわけか、東北へ行くと、よく行き会います。
きっと、ビルが少ないので空がよく見えるせいだと思います。
埼玉でも、千葉でも、虹は時々出現するのでしょうが、気付きにくい環境なのでは…。
ありがとうございます。気にかけて下さって。
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たとえば「虹」と入力すると、虹に関連した記事が出てきます。
http://nenemu8921.exblog.jp/5118276 に虹の記事があります。
案内してくださった方も、此処でキャンプして、朝起きたら、潮がみちていて、ずぶぬれになったというお話をされていました。(#^.^#)
若い時は旅もワイルドでしたが、この頃は体力に自信なく……。